< 2025年04月 >
S M T W T F S
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
店主
D介
D介
オキナワは宮古島へと漂着し、あれよあれよと気付けば間もなく十年目に突入。台風銀座の△島から、「あれやこれや」 「なんやかんや」と勢いだけで地道に発信中!。
最近は気象予想師風の颱風莫迦Blogである。
予報士ではなく、あくまでも予想師なので競馬の予想のように生暖かく見守ってやってください。
月例実績
ご来店者数
D介へメール
読者登録する式
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 28人

2013年04月24日

第三龍虎隊

このところ「巡検雑記」ばかりでさすがに飽きてると思うので、ちょっと趣向を変えて・・・って、たぶん、もっとマイナーの方向にベクトルを振ってると思うけどね(笑)。
とりあえず、意見は色々とあるかもしれませんが、単純になんとなく「面白い」と思ったので。

『1945(昭和20)年7月28日、嘉手納沖で米海軍フレッチャー型駆逐艦キャラハンが1機の特攻機による攻撃を受けて撃沈した』
第三龍虎隊こんな風に書くと、沖縄戦の最中に繰り返された、神風特別攻撃隊のことでしょ?って思えますが、そんなストレートなネタだけでは動きませんよ(笑)。
まず、注目は日付です。この事象が起きたのが7月28日であるということ。
慰霊の日に定められているので、ご存知と思いますが、6月23日の日本軍司令官の自決を持って、沖縄における組織的戦闘が終結したとされる日を、軽く超えているということ(実際は玉砕作戦であったため、各地で散発的な戦闘は継続されていた。また、司令官の自決の日も、どうやら諸説あるらしい)。
それからこの事象は、沖縄戦における最後の特別攻撃であり、特攻よる最後の撃沈戦果なのだそうです。

第三龍虎隊
【↑↑↑クリックで大きくなります↑↑↑】
しかも、その特攻を行った飛行機というのが、海軍九三式中間練習機という、昭和初頭に開発された複葉機でした。
複葉機が主戦場で活躍したのは、ひと昔前の第一次世界大戦であり、第二次世界大戦の末期では、噴式(ジェット)の戦闘機が実用化されようとしていた時代でした。
ただ、海軍九三式中間練習機は完成当時から、安定性や信頼性が高く、搭乗員養成に一役買う良機だったそうなのですが、機体構造の一部は木製の骨組に布張りで出来ているというもの。その上、特攻仕様として後部座席に増槽としてドラム缶を装着し、機体の限界を超えた250キロ爆弾を積んでの出撃をしたのだそうです。
パワーの少ない旧型機に重い荷物(爆弾)を積んでいるので、それなりに良機だったとはいえ、本来の最高スピード210キロを大きく下回る、130キロ程度しか出せなかったそうです。
第三龍虎隊
それなのに当時の最新型の駆逐艦(フレッチャー型駆逐艦は1942年/昭和17年に就航したばかり)を撃沈するということをやってのけたです。
実際には足の遅い海軍九三式中間練習機が、直接攻撃が可能だったのは、ひと昔前の複葉機だったからやれたということもあったらしいのです。レーダーに映らないように低空で艦隊に接近し、しかも木製フレームに布張りなので、レーダーにも映りにくかったらしい。さらに接近して機銃掃射を受けても、エンジンやガソリンタンクに被弾しない限り、布に穴が開くだけで普通に飛んでいたという脅威の性能が、逆に功を奏したようなのです。
なんかもうこのあたりまで来ると、脳内再生のドラマが再生され、勝手に美化してぐっと来る展開になっていたりします(笑)。
第三龍虎隊
で、この攻撃を行ったのが台湾で組織され、宮古島に配備された第三竜虎隊なのでした。第一と第二も台湾を発ったのですが、夜間着陸に失敗して大破したり、宮古までたどりつけず与那国に不時着するなど、まともにたどりつけたのは第三だけだったようなのです。
そして彼ら第三竜虎隊は宮古島から、最後の特別攻撃として飛び立ち、特攻よる最後の撃沈戦果を上げたのだそうです。

というような物語を、またまた知ってしまったので、ざっくり紹介させていただきました。
個人的にもこれまでの宮古島の戦史というと、空襲と艦砲射撃の話とか、震洋やマルレなど海洋特攻船しか聞いたことがなかったので(そもそも末期には、制空権も制海権もほとんど無かったくらいだから・・・)、まさか宮古から飛び立った特攻機があったなんて驚きでした。
それを知ったのがすでに画像が色々出ていますが、宮古テレビ裏手にある『豊旗の塔境内各慰霊碑』の中のひとつ、神風特別攻撃隊第三竜虎隊慰霊碑でした。
第三龍虎隊
なぜそんなところへ行ったのか。実は本来の目的はここではなく、一番最初の慰霊碑の裏側に見えている空き地でした。もう、感のいいひとはお気づきですね(笑)。
こちらの空き地へは宮古テレビと陸上競技場の間の道を奥に行ったところにあった、旧・平良市学校給食センターでした(現在は移転している)。給食センターの移転後は、しばらくは「宮古島市教育委員会文化振興課文化財資料室」として利用され、整理途中の出土品などが保管されていましたが、資料室も城辺へと移転することとなり、遂には建物も取り壊されてしまいました(まだGoogleMAPには名前も、建物も残っています~画像はストリートビュー)。
給食センター閉鎖後あたりからだと思うのですが、ここが“でる”と云われてる場所になっていました。実際、資料室の引越しを手伝った人たちから聞いた話では、見えたことはなかったけれど、なんかくすぶった気のようなものがあちこちにあり、突然に熱が出たり、体調を崩したりする人が何人もいたということです。
その話を聞き、現地を確かめてみようと思って訪れたら、もう更地になっていたというオチだったのでした。それでも一応、現地に立ってみましたが、まったく“でる”ような感じは一切なく、逆になんとなく明るい雰囲気となっていました。
まさかまさかの心霊スポットがオチになっているとは思わず、読んでしまった人、ごめんねぇ(笑)。ま、実際に何もなかったからいいよね!(笑)。

【資料】
「第三龍虎隊」、フレッチャー型駆逐艦キャラハンを撃沈セリ
http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/33208337.html




同じカテゴリー(Weblog)の記事
謹賀新聞2025
謹賀新聞2025(2025-01-02 11:04)

謹賀新年2025
謹賀新年2025(2025-01-01 10:10)

謹賀新聞2024
謹賀新聞2024(2024-01-02 12:12)

謹賀新年2024
謹賀新年2024(2024-01-01 13:37)


Posted by D介 at 11:04│Comments(0)Weblog
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。