2012年09月20日
ヤマダ狂想曲(ラプソディ)
タイトルに“ヤマダ”とありますが、完全にステマとして利用させていただきました(笑)。だって、ヤマダ電機とは一切関係のない、宮古島の”ヤマダ”の話なんですもの。
それがこちら、山田橋!。
川がないのに橋があるのかって?ありますとも!大河とは呼べないけれど宮島にも川はあるのです(ただし、天然の河川は圃場整備や水路改修によって、ほぼ失われています)。
で、橋。山田橋である。この橋の存在を知ったのは宮古口(みゃーくふつ)メールマガジン「くまからかまから」のオフ会(主宰の帰島にあわせて毎年開催されている)で、歌を出したというのを小耳に挟んだことから。
その歌というのがこちら。アモイ(狩俣恵吉)さんの出したCD、「ずぅらみゃーくんかい」の中に収められている「山田橋」という曲である。
それがこちら、山田橋!。
川がないのに橋があるのかって?ありますとも!大河とは呼べないけれど宮島にも川はあるのです(ただし、天然の河川は圃場整備や水路改修によって、ほぼ失われています)。
で、橋。山田橋である。この橋の存在を知ったのは宮古口(みゃーくふつ)メールマガジン「くまからかまから」のオフ会(主宰の帰島にあわせて毎年開催されている)で、歌を出したというのを小耳に挟んだことから。
その歌というのがこちら。アモイ(狩俣恵吉)さんの出したCD、「ずぅらみゃーくんかい」の中に収められている「山田橋」という曲である。
オフ会当日は沢山の人がいたため、詳細についてアモイさんご本人から聞くことが出来なかったのですが、後日、YouTubeにアップされている動画を見て、思わず「私、気になります」が発動!。
なんせ、この地域の河川調査は一周道路の宮原遊水地の展望公園が完成した頃に、宮原小学校南の宮原水辺公園までは、ほぼコンプリートしており、水辺公園から上流部については、気になっていたものの、散発にしか現地調査を実施していなかったところに、山田橋という格好の話題が跳び込んてきたのですから突撃するしかありません(この時点で、小字である山田の集落が確定出来てないという理由もある)。
ということで、とるものもとりあえず車を走らせ、最初は水辺公園東側の川を遡ることにします。といっても旺盛な島の緑に阻まれて、川沿いを進むことは困難(そもそも道のない所も多い)なため、右に左に地形をたぐって進行します。
【左】宮原水辺公園(東口)。小学校前からだと、巨大なカエルやカメが出迎えてくれます(池には水もある)。この看板の上流に、草木に埋もれて取り付き道路のない謎の橋が架かっています(誰か渡ってみて)。
【中】上流へと進むとサイフォン構造の水管橋(主に農水)が現れました。下に川があることを物語っていますが、山田橋ではありません(尚、この奥に突撃したら十字架のついたお墓が出てきた)。
【右】さらに上流に進むと、唐突に一本目の川が終了(ブッツリ水路が切れる)。すぐ脇には前から気になっていた畜産の里広場があってびっくり(宮原小前にも看板が建っています)。
今度は宮原小から南に伸びる川に向かおうと、移動する途中で通過した森の隅に、水路らしき凹地を発見するも藪に阻まれて全貌を把握することは出来ず、ひとまず前進。
【左】両岸の畑より水路がかなり低くなっているため、土手を盛って橋を架ける(橋の構造を見て、昔ここを通った記憶を取り戻す)、内地のような作りが土木萌です(この水路はほぼ直線であり、畑の高さを考えると、掘削されたものと考えられます)。
【中】これまで便宜上、橋と呼んできましたが、どこもボックスカルバート(暗渠型)で、欄干すらなかったのですが(転落防止はガードレールやセメント盛り程度)、ここはちゃんと橋っぽくて思わず「ニセ田橋」と名付けたくなりました(橋名はない)。
【右】更に水路に沿って南下して、農道に架かる橋の部分のチェックを続けます。上流部に沈砂池のあるところへたどり着きました。水辺公園の案内図では、もうひとつ上流の橋の脇にあることになっていました(爆)。
【左】更竹の温泉病院が近づいて見えてきたところで、水の溜まった沈砂池が現れました(動画にも出てくる)。水路のようなものが、奥のサトウキビ畑の奥の方へと続いていますが、もはや川ではなくなっているのでここを終点とします。
【中】けど、その裏に、古い井戸を発見(拝所もある)。井戸の改修をした小さな記念碑があり、その文末に「卯の年六ヶ月長期干魃に当り」と結ばれており、年表を紐解いてみたら、1963年(昭和38)の卯年に、1月15日~5月31日まで137日間もの干魃があったと判りました(ちなみに前年も100日近い干魃があった)。記念碑を建てて願うのは想像に難くありません。雨乞いのクイチャーも踊ったのではないでしょぅか。
【右】そんな井戸の近くにあった小さな御嶽。畑の真ん中でご神木のように立つ一本の木を中心に、低い石垣が渦を巻いて積まれていました(造形が美しい)。
ここまで川を2本遡りましたが、未だ山田橋へたどり着いていません。
な・の・で・・・後編「嗚呼、山田橋」へつづく!(たぶん、完結するはず)
なんせ、この地域の河川調査は一周道路の宮原遊水地の展望公園が完成した頃に、宮原小学校南の宮原水辺公園までは、ほぼコンプリートしており、水辺公園から上流部については、気になっていたものの、散発にしか現地調査を実施していなかったところに、山田橋という格好の話題が跳び込んてきたのですから突撃するしかありません(この時点で、小字である山田の集落が確定出来てないという理由もある)。
ということで、とるものもとりあえず車を走らせ、最初は水辺公園東側の川を遡ることにします。といっても旺盛な島の緑に阻まれて、川沿いを進むことは困難(そもそも道のない所も多い)なため、右に左に地形をたぐって進行します。
【左】宮原水辺公園(東口)。小学校前からだと、巨大なカエルやカメが出迎えてくれます(池には水もある)。この看板の上流に、草木に埋もれて取り付き道路のない謎の橋が架かっています(誰か渡ってみて)。
【中】上流へと進むとサイフォン構造の水管橋(主に農水)が現れました。下に川があることを物語っていますが、山田橋ではありません(尚、この奥に突撃したら十字架のついたお墓が出てきた)。
【右】さらに上流に進むと、唐突に一本目の川が終了(ブッツリ水路が切れる)。すぐ脇には前から気になっていた畜産の里広場があってびっくり(宮原小前にも看板が建っています)。
今度は宮原小から南に伸びる川に向かおうと、移動する途中で通過した森の隅に、水路らしき凹地を発見するも藪に阻まれて全貌を把握することは出来ず、ひとまず前進。
【左】両岸の畑より水路がかなり低くなっているため、土手を盛って橋を架ける(橋の構造を見て、昔ここを通った記憶を取り戻す)、内地のような作りが土木萌です(この水路はほぼ直線であり、畑の高さを考えると、掘削されたものと考えられます)。
【中】これまで便宜上、橋と呼んできましたが、どこもボックスカルバート(暗渠型)で、欄干すらなかったのですが(転落防止はガードレールやセメント盛り程度)、ここはちゃんと橋っぽくて思わず「ニセ田橋」と名付けたくなりました(橋名はない)。
【右】更に水路に沿って南下して、農道に架かる橋の部分のチェックを続けます。上流部に沈砂池のあるところへたどり着きました。水辺公園の案内図では、もうひとつ上流の橋の脇にあることになっていました(爆)。
【左】更竹の温泉病院が近づいて見えてきたところで、水の溜まった沈砂池が現れました(動画にも出てくる)。水路のようなものが、奥のサトウキビ畑の奥の方へと続いていますが、もはや川ではなくなっているのでここを終点とします。
【中】けど、その裏に、古い井戸を発見(拝所もある)。井戸の改修をした小さな記念碑があり、その文末に「卯の年六ヶ月長期干魃に当り」と結ばれており、年表を紐解いてみたら、1963年(昭和38)の卯年に、1月15日~5月31日まで137日間もの干魃があったと判りました(ちなみに前年も100日近い干魃があった)。記念碑を建てて願うのは想像に難くありません。雨乞いのクイチャーも踊ったのではないでしょぅか。
【右】そんな井戸の近くにあった小さな御嶽。畑の真ん中でご神木のように立つ一本の木を中心に、低い石垣が渦を巻いて積まれていました(造形が美しい)。
ここまで川を2本遡りましたが、未だ山田橋へたどり着いていません。
な・の・で・・・後編「嗚呼、山田橋」へつづく!(たぶん、完結するはず)
Posted by D介 at 13:33│Comments(0)
│なかゆくい
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9月20日昨日の「ヤマダ狂想曲(ラプソディ)」からの続きです(ヤマダ電機ネタではありませんので、ご注意下さい・・・笑)。※「山田橋」:アモイ(狩俣恵吉) 「ずぅらみゃーくんかい」...
嗚呼、山田橋!【STAPANBIN CAFE Condiment Bar】at 2012年09月22日 12:29